言葉が出て来ない

 「ものがたりの郷」の第1号入居者の男性Kさんは、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患っている。10万人にひとりといわれ、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気だ。75歳だが、通常の生活ではいつも笑顔で、快活そうに見える。女性スタッフには冗談もいって、決して弱音をはかない。心を許すのは、男性看護師のO君。男同士ということもあり、「君はこんな病気にかかってないから」と時に厳しいこともいう。O君の悩みは、慰めの言葉を捜すのだが、どれも安っぽく、嘘っぽく、言葉が出て来ないこと。
 1月3日、娘さん一家がやってきて外食に出かけることになっていた。いつもの紙パンツを布のものに履き替えて、弾んでいるのがよくわかる。パンツの位置もほぼ腰骨の数センチ上と決まっているのだ。元国鉄マンだけに几帳面でもある。ニコニコと手を振って出かけたのはよかったが、ちょいと好きな酒を呑みすぎたのか、トイレが間に合わなくなり失禁してしまった。せっかくの外出が惨めなものになってしまったのである。帰ってきてから、O君が世話をしたのだが、やはり言葉が出てこなかった。
 昨秋、好物の鮎で一杯やろうとスタッフ5人と居酒屋に繰り込んだ。両手で冷酒を拝むように何杯もお代わりをして、スタッフの心配をよそに酩酊寸前までいったしまった。この時もそうだったのだが、スタッフという安心感からか落ち込むことはなかった。家族というと、やはり惨めなところをみせたくないという自分の矜持というものが複雑にからむようだ。
 ナラティブホームの原点は、言葉だけではないコミュニケーション能力、いわば深い人間力を身につけないといけない、とO君は悩みつつ、成長を期している。

 

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