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ものがたり在宅塾2013 第3回 「私が想う最期のとき」

ものがたり在宅塾2013 第3回 2013/10/21 般若農業改善センター

 

「私が想う最期のとき ~宗教者としての視点から~」 
石田智秀氏(浄土真宗本願寺派 北海道教区十勝組 妙法寺衆徒)

  

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 浄土真宗では阿弥陀如来の救いにより、浄土へ往く。倶会一処・怨親平等であり誰もが一緒に往く。お念仏を唱えるから往くのではなく、唱える状態になっていれば救われる。 大学院で現代社会と浄土真宗をテーマに研究した。脳死臓器移植、新宗教などについて考えた。その中で森岡正博氏の生命学を知った。自分を棚上げせずにすべての課題を考える、自分や近親者に起こりうる課題として考えるのが特長。その勉強会に参加するようになって佐藤先生と知り合った。佐藤先生は自分を棚上げにしない看取りを考え、『家庭のような病院を』を著した。

 

 

■いろいろな最期/ものがたり/家族、友人知人、他者

 いろいろな亡くなり方がある。ぴんぴんころりもあれば、認知症によりまわりの人々に多くのこと教えて亡くなる人もいる。実は妙法寺のルーツは富山にある。開拓団に請われて1906年に北海道へ渡った。人、歴史それぞれにストーリーがある。さまざまにそれぞれが“つながっている”。
 『恋ちゃん はじめての看取り』(國森康弘、農文協)は、曾祖母の死と向き合う少女を見つめた写真絵本。看取りとは、大切な人が息を引き取る「旅立ち」のとき、そばに寄り添い、感謝と別れを交わすこと。ひとつの命は、ひとつの命だけで終わりではない。いろんな命が看取りによってつながっていくし、看取られない命でもつながっていく。

 

 

■最期についてのいろいろな知識・情報

・『家族を看取る』國森康弘著、平凡社
・『良い死』立岩真也著、筑摩書房 尊厳死について、良い死悪い死があるのかと問い掛ける。
・『逝かない身体』川口有美子著、医学書院 著者はALSの母を看取った。すごい本だと思った。
 2010年大宅壮一ノンフィクション大賞。
・『救いとは何か』森岡正博著、筑摩書房 森岡氏と浄土真宗の僧侶でもある山折哲雄さんとの対談。
 山折さんは浄土の実在を信じないと明かしたうえで会話を重ねる。
・『生者と死者をつなぐ』森岡正博著、春秋社 旅立った命とともにわたしたちは生きていくこと、
 鎮魂と再生のための哲学を記したエッセー
・『死は共鳴する』小松美彦著、勁草書房
・『死の自己決定権のゆくえ』児玉真美著、大月書店 わたしがわたし自身の死を決めてよいのかとの問い掛け。
 世界的に進む死の自己決定への懐疑
・『死者の代弁者』オーソン・スコット・カード著、早川書房 かけがえのない物語がテーマのSF作品。
 ある問題を抱えて亡くなった人のことを調べ代弁する。
 それがコミュニティーの問題解決につながるというストーリー。

一人ひとりのかけがえのない物語はより大きな物語を指向することがある。それが宗教なのかなと捉えている。

 

 

131213_2■看取りを手伝おうとする宗教/
 ホスピスとビハーラ

 ビハーラはキリスト教のホスピスから刺激を受けた仏教的世界観からの看取り。奈良時代に施薬院、悲伝院が設置された歴史があるが、現代ではキリスト教のホスピスに比べて仏教は後手に。わたしの参加しているビハーラ十勝は特別養護老人ホームでの傾聴活動などを行っている。現在、ビハーラは終末期の看取りだけではなく生全体を考えるようになってきている。
 終末期に対する仏教の歴史を紹介する。二十五三昧会は往生浄土を目指した助け合いグループみたいなもの。平安時代には阿弥陀仏の誓願による臨終来迎をめざすグループがあった。涅槃図に描かれる様子はお釈迦様が死ぬわけではないので看取りではないが看取りのようなもの。来迎図は阿弥陀如来が迎えにきてくれる様子を描いたもので、考え方は看取りに近い。源信の「往生要集」(平安時代)にも阿弥陀仏の来迎が説かれている。来迎図屏風や仏像から五色の糸を出して握ったり、念仏を唱えたりしながら死ねるようにまわりの人が支援する習慣があった。

 

 

■リアルな「わたし」の、いろいろな最期

 臨終来迎という考えはある。しかし、浄土真宗は臨終来迎ではなく、平生業成(へいぜいごうじょう)であり常来迎。来迎を待つ必要はない。往生してまたかえってくる(往相回向・還相回向)もすべて阿弥陀如来の力による(他力本願)。日常の諸々を人任せにするのが他力本願ではなく、往生浄土・成仏がわたしの力でなく阿弥陀如来の力によることが他力本願である。
 ビハーラは、ホスピスと同様に来る者の宗教は問わない。しかし、ホスピスと同じく「すべての存在は阿弥陀仏によって救われる(ホスピスでは神)」という前提からスタートする。『お浄土があってよかったね』(宮崎幸枝著、樹心社/星雲社)は「人が医者に求めるのは救いである」と訴える。サブタイトルは「医者は坊主でもあれ」。
 わたし自身にも終わりがくる。死ぬ前から平生も常に阿弥陀如来の働きがわたしとともにあると考えれば、死は怖いかもしれないが問題ではない。わたしがどうこうする範疇のことではないということ。阿弥陀様にお任せする。子供のころは死を理解できず恐ろしくて泣いていたが、今は分からないなりに解決がついているとは言える。

 

 「みんな死んでいったのだから、わたしもうまく死ねる」と話すお年寄りがいる。前向きな考えだと思う。お浄土へみんなが行く。“みんな”がキーワードかもしれない。
 死が怖いから死ねないということは起こらない。みんな、きちんと、死んでいける。死に際も問題ではない。看取られても、看取られなくても、どのような最期でも大丈夫。釈迦が涅槃に入られる時には、弟子たちのほうに入滅の現実を受容するため看取りにあたる状況が必要だっただけ。 看取ってもらえなくても大丈夫、看取ることができなくても大丈夫、看取っても大丈夫。ひとの一生という物語は、より大きなこの世界の物語にかけがえのない一部分として確実に溶け込んでいく。