13.12.25

ものがたり在宅塾 多職種連携シンポジウム 【特別講演1】

ものがたり在宅塾 多職種連携シンポジウム 2013/3/3

 

【特別講演1】
ナラティブアプローチとその系譜
スキル・実践・態度・倫理


金城隆展氏
琉球大学医学部付属病院 地域医療部特命職員・倫理コンサルタント

 

 ナラティブの過去から現在への流れを紹介する。ナラティブアプローチの系譜を概観し、4つのナラティブアプローチを理解してもらいたい。「ポストモダン・ナラティブエシックス」「スキルとしてのナラティブ」「実践としてのナラティブ」「態度としてのナラティブ」の4つだ。この後に講演する藤田さんの論文のようにナラティブアプローチ、ナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM)を批判的に論じる研究者がでてくるのを待っていた。なぜならばナラティブアプローチの本質は伝統を批判的に読み直す、考え直すことにあり、ナラティブ自体も批判を免れないからだ。わたしは倫理学者であってナラティブの専門家ではない。逆にナラティブの専門家になってはいけないとみなさんに伝えたい。

 

 

<今回伝えたいことは以下の4点>

(1)物語とは「複数の出来事を深く関連付けること」によって「意味」を作り出す装置であり、
   ナラティブとは物語と語りを含むある特定の「状況」を表す包括的な概念である。
(2)ナラティブはスキル、実践、態度として様々な分野に導入されているが、
   その本質は「読み直し」であり、最後は必ず自分の専門性に戻らなければならない。
(3)私たちが使う言葉(物語)が現実を創る。
(4)ナラティブは贈り物であり、私たちが本当に辛い時に互いに助け合うことができる唯一の方法である。

 

 

■ものがたりとは何か

 物語とは経験が要約され言語化されているもの。出来ごとを選んで深く関連づけること(物語は星座のようなもの。星を結ぶようにして浮かび上がってくる)。出来事を並べるだけではなく、その相関関係が加わることで物語になり、出来事のつながりと全体の筋という2つの意味が生じる。
 「ナラティブ」という言葉は「物語」と「語り」の2つの意味を内包する。語り手と聞き手の中で物語が循環していく様子、状態がナラティブである。物語は語り手と聞き手の真ん中にあるのだ。

 

 

■ナラティブアプローチの系譜

 ナラティブアプローチは身近であるがゆえに、さまざまな分野に応用されているため全体像がみえない。整理するために系譜をまとめてみた。
 ナラティブアプローチには「文学」「精神分析」「医療文化人類学」の3つの起源がある。ポストモダニズム(近代のあとにくるもの)の中で、大きな物語(支配的な物語)に対する批判として小さな物語(ナラティブ)への関心が深まっていった。大きな物語とは近代主義、キリスト教、普遍的な知識、本質的な自己があるという考え方など。

 

 

■ポストモダン・ナラティブエシックス

 語る人のためのナラティブが「ポストモダン・ナラティブエシックス」。ポストモダンという時代に即した語りの倫理であり、文化人類学を起源とする。
 西洋文化の自民族中心主義、植民地主義から、ポストモダンを経て文化に優劣はないという文化相対主義をみいだしていく。医学における自民族中心主義は患者の文化を否定するもの。患者は医療者の言うことを聴いていればよいという臨床の植民地主義だ。臨床で言葉を支配する医療者に対し、患者のカウンターストーリーに光りを当てるのがポストモンダン・ナラティブエシックスだ。これまで抑圧され、辺境化されてきた患者の文化に光を当てようとした。

 

◇語りの譲渡し
 臨床では患者の物語は抑圧されている。社会的な役割や自力回復の義務を免除される代わりに、回復を目指すという役割や医療専門者に援助を求め協力する義務がかされる。患者は回復の物語しか語ってはいけない  患者の病の物語は、医学の・病院の疾病物語という薄っぺらなものに変換されている。 カルテが公式の物語になり、患者自身の物語を臨床で残せない。本来、物語の筆者であるべき患者から医療者へ、「語りの譲渡し」が発生している。

 

◇なぜ患者は語るのか
 人生は航海に例えられる。病という嵐に遭遇して難破したならば、この難破をどうにかして理解し、意味づけて飼いならしたいと思う。村上春樹氏は「定義しがたいものを定義するにはどうすればよいのか。言語化しがたいものを言語化するにはどうすればよいのか。僕はこれこそが物語の果たすべき役割だと思うのです」と記す。 ヴィクトール・フランクル氏は「人間は生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えはそれぞれの人生から具体的な問い掛けに対する具体的な答えでなくてはならない」とする。患者の具体的な問いとは、 なぜ病になったのか、この病気の意味は、わたしの人生の意味は。生き残るためには具体的に答えなければならない。

 

◇慢性の病の語り
 慢性の病を前にして医学は限界を露呈する。従来の回復の物語が助けにならない。病によって難破し、医学の語りも難破するという2重の難破である。そして患者は病の経験を自分自身の言葉で語り、探究することを選ぶようになってきた。これがポストモダンの語りである。

 

◇ポストモダン・ナラティブエシックスの功績
・大きな物語によって患者の語りが抑圧され譲り語られていることの発見
・患者の病の語りの発見 ・文化相対主義を提唱し、臨床の民主化を促進した
以下のような課題もある
・患者の語りの自律性を強化し、専門家と非専門家の二項対立を強化
・語れない人、語りたくない人への語りの押し付け
・患者の抵抗としての語り始めた後の専門家と関係性

 

 

■スキルとしてのナラティブ

 スキルとしてのナラティブは文学論を起源とする。物語を研究する文学的能力を備えることで、専門家はより優れた実践者になれる(教育)と考えた。筋をたどる力、注意深く読む、大事なことを見極めるといったことが役にたつのではないかと。ナラティブを専門家(例えば医師)の能力を補完するスキルとみなした。ポストモダン・ナラティブエシックスは語る人のためのナラティブであったが、スキルとしてのナラティブは伝統的な専門性を保守する立場にある。

 

 

■実践としてのナラティブ
 実践としてのナラティブはフロイトの精神分析を起源とする。実践として現場にナラティブを導入し、物語を共同著作する。乗り越えるべき伝統があり、社会構成主義に基づくナラティブで伝統を「読み直し」てきた。病を定義し創っていく主体として患者やクライアントを尊重した。専門性とナラティブを臨床実践の両輪と捉え、専門家と患者の物語の共同著作を中心的実践とみなした。

 

◇フロイトの精神分析
 フロイトの精神分析は現代に大きな影響を与えている。物語の達人とも呼ばれる彼の最大の功績は物語の力に気づき、ナラティブアプローチの基礎を築いたことである。
 物語の傾聴を公式の治療法として初めて導入した。精神分析はおしゃべり療法だ。フロイトは最初、過去のトラウマが患者にとって抑制となり無意識的に神経症を引き起こしているのではないかと考えた。抑圧の原因となる体験を語らせたら解決できると推測したが、抑圧体験自体がなく作り話をする患者もいた。そこで逆転の発想で、現在の症状が過去の記憶をつくっているのではないかと考えた。患者は自信の神経症をうまく説明してくれる物語を必要としているのではないか。作り話であっても患者にとっては大切な物語であり、よりよいものに書き換えて一緒に解決を目指すことにした。
 乗り越えなければならない伝統があり、それを守ることでの閉塞感が生じているならば伝統を読み直さなければならない。そこにナラティブや社会構成主義を導入したのがナラティブセラピー、NBM、ナラティブエシックス。

 

◇社会構成主義とは何か
 社会構成主義とは、現実は社会的に言語を介して構成されるとの考え方。現実は物理的なものだけではなく、頭の中でつくりだす現実もある。物理的な現実を言葉で説明しようとすると社会的現実の構成プロセスが始まる。人々の内的世界から主に言葉で外在化し、客体化、制度化されて固着される。それをまた内在化するという循環によって現実が構成される。例えば、セクハラという言葉によってこれまでもあった現実の問題が広く共有されるようになった。
 社会構成主義では、「問題は人と人の間にある」「問題そのものが問題である」と捉える。誰かの問題にすると内在化して解決しにくいと考えるからだ。これを利用しているのがナラティブセラピーである。

 

◇ナラティブの社会的構成
 ナラティブは語り手と聴き手の中で物語を循環させることで、新たな現実の構成を狙っている。壊れた人生の物語の修復を目指す、病の物語の共同著作だ。
 ナラティブにおいては聴くことはもちろん重要だが、大事なのは物語を循環させることである。物語を循環させるコツは、単純反復、言い換え、物事のつながりを探究する質問(語ることを促す質問。どうして?)など。

 

 

■態度としてのナラティブ  
 態度としてのナラティブは、苦境に立たされている人々に向き合う態度としてナラティブを導入するアプローチである。手段であるスキルとしてのナラティブや実践としてのナラティブよりも上位に位置づけたい。良い医師になるため、治療のため、といった何かの手段ではなく、態度としてのナラティブは傾聴すること自体が目的となる。
 リチャード・ゼイナー氏は、物語は「贈り物」だと述べる。物語は私たちが良い時期も悪い時期も乗り越えるために互いに助け合うことができるおそらく唯一の方法であり、贈り物である。医学が通用しない状況、倫理的な難しい判断に立たされた時にわたしたちができることは語り合うことしかない。消去法ではあるが、それしか残されていない。

 

 

■ナラティブに関する留意点
 強調しておきたいのは、ナラティブの専門家にならないということだ。ナラティブは専門性や伝統を読み直す視点にすぎず、必ず自分の専門性に戻ってこなければいけない。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン)とあるように、言葉にできないものがあることにも留意したい。

 

 

■結局のところナラティブってなに?
 ナラティブとは、寄り頼むことができる「大きな物語」がない時代にわたしたちが生きていること、そしてみんなで意味(物語)を創りだす覚悟をすること。
 ナラティブとは、専門家であるわたしたちが、患者やクライアントの物語を奪い取ってしまいがちであることを認め、自分の文化を批判的に再吟味しつつ、相手を変えるのではなく、相手に向き合う自分の態度を変えることを厭わずに、専門家としての本分を果たしつつ、謙虚に非専門家の人々に向き合うことを意味する。

 ナラティブとは、患者やクライアントが自分自身で病や問題を定義し、意味を作っていくことができる主体であると信じる。彼らが語る物語が彼らにとって本当に必要であり、その物語を彼らが生きていることを信じる。そのうえで、その物語の中に留まりながら物語を共に紡いでいく覚悟をすることを意味する。
 ナラティブとは、他者が本当に困難な状況に置かれている時、私たちにはその人の物語を聴くことしかできないと深く認めつつ、しかし、物語こそが私たちにとって最高の贈り物(助け合う唯一の方法)になる可能性があると心の底から信じること。