13.12.25

ものがたり在宅塾 多職種連携シンポジウム 【特別講演2】

ものがたり在宅塾 多職種連携シンポジウム 2013/3/3

 

【特別講演2】
ナラティブ・ベイスト・メディスン再考

 

藤田真弥氏
群馬大学医学部医学科

 

 ナラティブ・アプローチは、診察時の心構え、生活習慣病での行動変容、慢性疾患と長くつきあっていく、死に至る病の受容をはじめ医療のいろんなレベルでさまざまに使われている。それら個々の実践は批判の対象ではなく、今回はナラティブ・ベイスト・メディスン(NBM)に対して3つの問題提起をしたい。NBMにおけるナラティブの変容(金城氏が話されたように人と人のあいだで循環する物語になっているのかという疑問)、物語を聴くことの侵襲性、物語の一貫性の代償についてである。

 

 

■NBMにおけるナラティブの変容

 「自己」は持って生まれた実体や本質によるものではなく、状況や立場に応じた物語りによって構成される、という考えが基礎にある。「語る」とは、ことの次第を順序だて、形をつけて話す・形を与えて構成すること。すでに構成され形のあるものを話したり、告げたりすることとは異なる。
 ナラティブの実践における聴き手の役割とは、語り手を既存の自己と捉えて心の中をのぞきこんだり、何かを聞き出そうとしたりするものではない。傾聴することとも異なり、話を循環させて展開させていくこと、語りを聴くことで物語りを展開させること。花びらを1枚ずつ置いて模様をつくるように、だがその形は風が吹けば変わってしまうようなイメージだと思う。
 しかし、NBMではナラティブが患者の内面を探るものへと変容しているのではないか、という疑問がある。医療者にとって便利で、使いやすいものと解釈してはいないか。「効果的な短時間の診察をすることができる」、「文学を分析する技術を身につけることができれば、それらの技術を、病歴聴取において生かすことができる(Trisha Greenhalgh)」といった記述もみられる。物語りをある1つの解釈に収れんさせようとすることは文学分析のあり方にも反するだろう。解釈の多様性を認め、医療者側の物語りを絶対視してしまうことをけん制しなければいけない。
 ナラティブの実践は物語りによって、心の内側を見透かそうとするものではない。ナラティブの能力は、病歴聴取ではなく、患者の物語りに触れようとするときにこそ真価を発揮する。物語りがあるからこそ、なにかしら接することができる、とさえ言えるのではないかと思う。

 

 

■物語りを聴くことの侵襲性

 現在の医療現場における患者と医療者の関係の中で、患者側の「もっと聴いてほしい」というニーズがナラティブの実践につながっているのは間違いないだろう。
 『ナラティブ・ベイスト・メディスンの実践』(斎藤清二著)には、「一般診療におけるNBMの特徴の第一は、患者の語る“病いの体験の物語”をまるごと尊重し、共有することである」とある。しかし、医療者は患者をまるごと知りえる存在なのか、知ってもよい存在なのか、そもそもまるごと知るなんてことは可能なのか、といった疑問が浮かぶ。患者を包み込めると思うのはおごりであろう。医療者は物語りの全体を知ろうとするより、立ち入らない部分を残す方が一人の人間と接して患者と接していることになるのではなかろうか。
 「患者の話を聞こう」と医学生は教育される。ただし、全体を知るように聴くという考えは、聴くことには限度がないような印象を与え、医療者はどこまで聴くべきかという判断を鈍らせかなない。
 「不幸の経験はことばを持たない。そこに本当の不幸がある」(鷲田清一)。苦しみを聴こうとすると、同時に苦しみの語りが生じる。患者が救われるのか、よけいに苦しめてしまうのかは答えがでない。暴力や暴言だけではなく、聴くことも侵襲的な力をもちうる。
 物語れない者を想定外にしかねない、という問題もある。うまく語れる者ばかりではない。また、幼児や認知症の患者もいる。自分自身を語ることには高いハードルがある。湖面に空や景色がきれいに映し出されるのがまれなように、自分の心を鏡のように映し出す物語りは難しいのではないか。困難さを承知したうえでのナラティブでなければならない。

 

 

■物語りの一貫性の代償

 良い物語りとは、筋が通っている、審美的に人の心に訴える、有用であるといったものであろうが、ナラティブによって創りだされた物語りが必ず良いものであると言えるだろうかという疑問がある。「否認→怒り→取引→抑うつ→受容」が死を受容していく段階とされるが、怒りながらの死が未熟な死とは言えないだろう。このように流れにのって聴き理解しようとすることを懸念する。
 個々の物語りを尊重しようとするナラティブの実践でも、一般的な物語りの一貫性に回収されてしまう恐れがあることを無視できない。医療現場で有用とされる物語りを望むことが、患者本来の物語りを一貫性のあるものへと押し流してしまいかねない。ネガティブなことを言えないという圧力が、患者に「病の克服」の物語りを語らせてはいないだろうか。熱心に語りを聴こうとする人々に対し、その人たちが思い描く患者を演じるだけかもしれない。
 物語りにすべてを盛り込むことはできない。光を当てて語られた物語りの陰に語れなかったものがある。一貫性を保つために、ある部分が排除されることだってあるだろう。「悲しい」という言葉で表しきれない繊細な部分が隠されるのは望ましくない。物語りに寄りかかると、患者の語りに留まって聴くことが難しくなるかもしれない。

 

 

<まとめ>

 医療者が表面的に、安易に患者の物語りを活用しようとすることで、患者の物語りは色あせていく。患者の厚い物語りが、医療者の薄い物語りに回収されるのを懸念する。
 物語りは医療者が知りえない患者の内面に立ち入らずとも、患者の病に向き合おうとする手がかりになる。物語りに収れん性があることは自覚しておきたい。患者の物語りに固執せず、断片的で矛盾しているような言葉を筋も追わず理由も求めずに聴くことがあってもよい。ナラティブという言葉が流行りで終わったとしても物語りはなくならないし、語りえないものもある。病の表現のひとつとしての物語りと語りえないものについて、さらに議論が深まることを望んでいる。